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被災地支援活動【大船渡市現地レポート】

4月18日(3)

 午後から奈良県の方が増えました。
 最後のお仕事は午前中の仕事場から歩いて5分程度の場所にある一人暮らしの高齢者(75歳の男性)宅の清掃。8畳ほどのプレハブです。家財道具をいるもの要らないものの選別や運搬を行いました。おじいちゃんにはすごく喜ばれました。「恩返しがしたい」と言われました。
 これで怪我もなく、無事支援活動の任務が終了。
 次のボランティア部隊への差し入れとして2リットルの水、長靴、非常食、ホッカイロ等を置いていきます。

4月18日(2)

 ボランティア活動の難しさを体験しました。
 支援した民家の隣の人との会話です。

 「私の家も隣と同様の被害を受けた。しかし、私は1月かけて自分でトラクターで丸太など運びました(まだまだかかります)。
 支援した家は、仕事に出てほとんど手つかずのままだったのに、ここ2日でみなさんが来て一気に片付けてしまった。市役所からも、最低限のことは、自分自身で何とかしてほしいと依頼を受けていました・・。」

 私たちはこのように思われている方々もいることを伝えますとこの方には話しました。自分たちは、いいことをしていると思いあがっては、いけないこともある。と認識しました。

4月18日(1)

 今日も快晴です。 夜の懇親会での会話ですが、大船渡では、公務員と一部漁業関係者ぐらいしか、仕事がないと思います。と支所の職員が言っていました(どこも似たり寄ったりと思う)。
 車の運転の引き継ぎの為、助手席にいます(軽自動車トラックがマニュアルなので)。

4月17日(3)

 午後も残りの仕事をしましたが、やりきれませんでした。よって明日の午前中で片付ける予定です。
 夕方から青森県労連の2人が合流しました。

4月17日(2)

 快晴だけど、風が吹いています。
 大船渡警察署の横にある大船渡社協災害ボランティアセンターの駐車場でボランティアの受付をして、甫嶺(ほれい)小学校の裏手にある民家の清掃作業に派遣されることになりました。職員が道案内をしてくれました。
 作業は庭先の瓦礫の除去を中心に、室内のキッチンや冷蔵庫もきれいにしています。除去した瓦礫は軽トラックに乗せて向かい側の集積場所に運びました。当初は午前中で終了予定でしたが、まだまだかかりそうです。
 昼食はカレーを食べました。

4月17日(1)

 おはようございます。雲が多く少し寒い朝ですが良い天気です。

 ○1日の日程
 ※朝食7時30分(ご飯の盛り付け、お茶などは各自で準備)→食事後のミーティング(仕事内容、割り振り、配車などの打ち合わせ)→午前の仕事開始→昼食(朝食と同様)→午後の仕事→作業終了後に入浴→近所の散策など→夕食19時(朝と同様)
 
 事務局(司令塔)の仕事が大変です。日々刻々と状況が変化するうえにこちらの(ボランティア)の人数もまちまち。現場に着いても責任者と折衝や段取りの打ち合わせが必要になります。さらに車の手配と配車、運転手の確保や部屋割りなどなど大変です。

 

4月16日(4)

夕食会での話。

 重機を扱っている業者は5社あったが、今回の震災で職人が集まらず3社しか仕事を請け負えないと言われたと支所の職員が言っていました。

4月16日(3)

 昼食後に雷が鳴り、強く降りましたが、出かける時には小雨になりました。午後の仕分け作業も順調に終了。これで、明日からは当面、大船渡市社協から指示を受けて仕事をします。明日の仕事は、道路の泥をきれいにして、石灰をまく予定。
 陸前高田市内を奥の方にある自治労連支援センター(鈴木旅館)まで行きました。まったく海が見えないので、ここまで本当に津波が来たのか信じられません。何もかもさらっています。瓦礫の山が半端なく高いです。
 風が冷たく大分寒くなりそうです。満潮で波打ち際が近い気がします。

4月16日(2)

財政、選管、商工、町誌等を仕分けしながらダンボール箱に詰めています。
少し曇りがかってきました。

4月16日(1)

 天気予報が外れて快晴です。朝、付近を散歩しました。湾内に見えた方によると「湾内が70〜80cm沈下したため、満潮時に海水が平地まで来てしまう。どう再建するんだ」と困っていました。海水は澄んでおり底まで見えます。

4月15日(3)

  職員は3月11日からハードな日が続いています。日曜日くらい支所の職員を休ませてあげたいです。 
 地元の方と少し話をしました。「政治がいつもケンカをしているからいかんのだ!」と嘆いていました。
 横浜市従は陸前高田の自治労連支援センターにお米と布団を届けたそうです。
 明日土曜日も今日と同様の仕事です。日曜日は、大船渡社協から指示を受けて作業する予定です。

4月15日(2)

   今日は、16名(女性3名)で仕事をしました。
 昼食は、うどん、味噌おにぎり、砂糖たっぷりのドーナツでした。とても、愛情を感じています。
 4時から陸前高田市へ。大船渡から40分程度で着きました。大分、瓦礫が除去されて殺風景な町並みになっています。
 作業は支所に大量にある三陸町誌の運び出しです。自然、歴史、津波、産業等第6巻まであります。歴代議長の写真盾も運び出しました。
 今から宿泊所に戻ります。

4月15日(1)

 いい天気です。第1陣が去ったので、私達が一番古株になりました。これから今までの経験を次の方々に引き継ぐことも大切な役割になります。
 午前中は、金庫から議会関係資料(明治時代から)や2階は家屋台帳等を運びました。
台車より荷物が乗って、キャスター付きの机が大活躍。腰をかがめなくてもすむので、大変重宝しています。午後からも、同様の仕事です。
 余震は、小さいけど、感じています。

4月14日(4)

   今日の吉川(第2グループ、片道40分程度の場所)に行かれた方は、個人が困っているのではなく、集落全体が物資が足りないという事態だったため、市役所で対応をお願いしてきたそうです。
 夜に、赤旗を見て災対連に募集してきた女性2人や千葉のスポーツ連盟の委員長、京都市職労青年部(2人)が合流しました。
 明日は、支所集合です。昨日と同様の仕事です。ボランティアは、長期間いる時は、無理をしないでやらないと、持たないと感じました。
 また、この夜、地域(越喜来)の災害当日のビデオテープを見ました。DVDビデオの内容は、越喜来(こきらい)地域の災害で、津波の第3波からの映像でした。(あづま荘の主人の解説付き)。
 第1波は、50センチ程度。第2波が最大級の波で堤防をはるかに越えました。映像は、悲惨な町並みを丘の上から撮ったもので、湾内の海水がなくなり(底が見える、船が2〜3隻沈んでる)その後、だんだん波が襲ってきました。
 堤防の一部が通路で開いている箇所から、海水が街中に押し寄せていました。堤防が決壊していたら、もっと大変な事態だったと想像できます(波が、行き場を求めて、湾内をぐるぐる回っています)。
 二人が津波が来るのを見たくて、カメラを持って堤防まで行って、一人は命からがら逃げたようですが、一人は、残念ながら、次の日に遺体で打ち上げられたそうです。
 船に乗っていた人が、津波警報発令中で、逃げて来て、2〜3分の差で助かったようです。
 映像は、復旧の様子も撮ったもので、自衛隊や大型重機で、道路や瓦礫の撤退、変わり果てた町並み、人々の会話(方言でわからない?)等記録映像で、貴重なものです・町並みは、まだまだのように見えるけど、着実に復旧しています。日に日に変化していく様子が分かります。
 明日の朝は、第1陣が帰ります(国公労連本部、国公労連広島、愛知県本部、愛労連など)。
 

4月14日(3)

   午後から、神奈川県医労連委員長が合流。午後の作業では、支所の金庫から(昭和20年代からの決算書・土地台帳等)を運びました。瓦礫の山を片付けようにも、持って行き場所に困っていますし、重機でやらないと時間がかかり過ぎる感じがします。人界戦術は、厳しい!
 子ども達は、無邪気に小学校で遊んでいます。小学校の始業式は、4月20日を予定しているようです。

4月14日(2)

   朝一番で、横浜市従と合流しました。活動場所では、絶えずラジオを聞きながら、作業をしています(地震情報源として活用します)。
 今日は、財政課の同じ大きさの段ボール箱(市税の領収書、原符が中心)を運んでいます。人が昨日より多いので、作業が少し楽な感じがします(午前中は2ラウンド)。しかし、少しずつ会話が減って無口になっていきます。

4月14日(1)

おはようございます・ 今日も天気予報どおり快晴で風も収まっています。
・第1陣は、今日で最終日になってしまいました。(夜の時点で19名になる)
・昨日の夜のミーティングで新たな仕事の依頼がきました。
・災害対策本部に連絡が入り、支援の手がまだ届いていないと報告のあった「吉浜」に別の二人で行きます。(私達は、昨日と同様の仕事です)
・避難所でなく、自宅避難者みたいです。実際に何が必要か不明なので、以前に仕入れてあった「米3袋」だけは、車に積んで、ご要望を聞いたあとこちらに戻って、再度荷物を積んで行き来する仕事です。
・支援センターでの心得→個性豊かなメンバーが集まるので、いろいろな意見が出るけれど、本部長の下、マイナス面でなく、プラス思考で、みんなを盛り上げる方向で和気あいあいといくことです。

4月13日(3)

おやすみなさい。
・大部屋には「なんでもノート」があります。一人一人が思いのままを書いています。
・その一部です「自分の人生にとってかけがえのない経験になりました」「目に飛び込んでくる景色にただただあ然呆然とするだけです」「自然の大きさには、たじろぐばかりです」「ゼロから立ち上る力は、想像以上に強いと思います」「新聞記事は、全然希望の持てないものが多い、報道は、展望を指し示すものにしたい」「全国の人々が、何か役に立ちたいという思いを私も思っていましたし、実現できることをいきに感じて参加しました」など。読んでいて、元気になれるものです。

4月13日(2)

砂嵐が凄いです。
・午前中と同様に支所と崎浜小学校の往復。
・午後から熊本出身の女性が一人加わりました。
・農林課と建設課の資料搬入です。
・肉体労働で私達より早く来ている第1陣も、値をあげています
・明日は、総務課と財政課の資料搬入が予定されています。
・宿泊所に帰って来て、風呂の順番待ちです。
・宿泊所が山の上にあるため、風で建物が揺れて震度2ほどの感覚です。(風か地震かどっちかわかりません)
・昼食+午後の搬入中の時に「電波ニュース社」が取材に来ました。ビデオテープで撮っていました。(全労連にも掲載する予定です)

4月13日

  ★4月13日★
今日もいい天気です。少し風があります。
 昨日お伝えしたとおり、支所の書類を崎浜小学校に移し替えます。軽トラックの運転手を私が、Sさんが、ワゴン車の運転手をやります。ここにいるメンバーで一番長くいるから、地理を把握させるためです。今日の活動参加者は、8人で、4人が支所で、小学校が4人に分かれて仕事をします。
 朝4時37分、余震で震度3を感じました。20秒程度揺れました。軽トラックがオートマでないので、今から練習します。

 風がきついくらい吹いています。子どもだと吹き飛ばされそうです。支所2階の奥から書類を下ろして、トラックで崎浜小学校まで3往復しました。(午前中だけで)軽トラックの運転は、すんなりいけました。ところどころで道路に亀裂がはしっています。
 小学校の体育館にスチール棚を組み立てて、荷物を搬入しています。私達は8人で、相手は10名ぐらいで作業です。午後からも、小学校で搬入されたものを、棚に入れる作業です。

4月12日

  ★4月12日★
活動開始(崎浜小学校の机・椅子等を別の小学校へ運び出す)
 10時→甫嶺小学校の体育館に搬入。(トラックが来たら運び出しの繰り返し)途中で大船渡市内を→屋根の上に車が乗っている。栃木県から来ている「建交労」の方は、民宿に泊まらず、車で寝泊まりしています。

   1時40分→午後の仕事は、小学校に「お米」が届くので、その運搬作業します。(午後から8人になります)明日からは、支所の書類を崎浜小学校に移し替えのお手伝いになります。(2〜3日同じ仕事になるみたい)。
 4時25分終了→米は、自衛隊の大型トラックで5台来ました。約50名程度で何回も体育館に運びました。

4月11日

◆4月11日(月)◆
(1)全労連事務所前を出発
(2)12時40分→那須高原SAで、自衛隊や日本赤十字職員が制服で食事。国交省やNTT
災害対策用の車両が駐車しています。
(3)自衛隊員と会話すると、福島県で「がれき撤去」の仕事を約1ヶ月やっていることを聞きました。
(4)1時45分→NHK福島のラジオ放送で、各地域ごとの放射線量(一時間当たりのマイクロシーベルト)を発表。屋外になるべく出ないように伝えているが、雨と雪は、放射線量が上がるので、特に触れないようにと報道しています。
(5)1時51分→福島県でやや強い震度4の地震が起きました。(バス車内では、わかりませんでした)
(6)2時40分→福島飯沼インターから高速道路(仙台市まで74キロ)に福島県に入ってから民家の屋根瓦が壊れたみたいで、ブルーシートで屋根を覆った家が見えました。福島市内では、歩いている人もマスクをしている人は、名古屋や東京と同じです。あまり、放射能を気にしていない様子です。蔵王付近から、小雨が降ってきました。
(7)朝の打ち合わせ会議で、支援する時の注意事項で、まずは自分自身の身を守ることが必要なので、津波が起こった時の避難経路を地元の人に聞いておくこと。(高台を調べる)倒壊家屋の下敷きに巻き込まないように、慎重に行うことを聞きました。
(8)3時25分→仙台宮城インターを出ました。
明日の仕事内容→支所の掃除か物資の御用聞きで、避難所以外の民家の二階に住んでいる人の要望を聞いて、送り届けることが中心みたいです。
(9)3時45分→宮城県労連事務所(宮城震災支援センター)に到着。(六人が下車)
(10)岩手県は、全労連事務局の一人と私達の二人が行きます。

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