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被災地支援行動【陸前高田現地リポート】2
5/31 現地に向け名古屋を出発!
陸前高田へ向けハイエース1台に4人の荷物を積み込み出発。名古屋高速→大山川→小牧→東京→世田谷→一関のルート。ちなみに災害派遣従事車両証明書があり、高速道路料金は無料に。道中、福島の鏡石や安積あたりになると道路が凸凹しており、震災の傷跡が見えはじめました。
21時30分に鈴木旅館(自治労連ボランティアセンター)へ到着。現地までの所要時間は13時間30分。
2人部屋に3人で川の字で就寝です。
6/1 けっこう腰にきます・・
晴天です。
朝食はご飯とみそ汁、サラダなどを生活支援班(ボラで来ている給食調理員さんたち)でまかないして頂きました。お昼御飯はパン3つと2本のミネラルウォーターです。夕食はしだし弁当のようです。
本日の作業は瓦礫の撤去と民家周りの泥の掻きだしです。瓦礫の中には釘がよく落ちているので長靴の中には踏み抜き防止のインソールが欠かせません。ボラの中に踏み抜いて病院に行かれた方がいると報告がありました。インソールはワークショップで購入できるそうです。
作業はけっこう腰にくるので腰を傷めないよう注意が必要です。
休憩中にはビックリ。ヤクルトさんが販売に来ました。避難所で生活しながら仕事をされているそうです。
民家の方もそうですが、被災者の方はたくましく、逆に励まされる感じがしました。
作業後は県下で集めた支援物資を給食センターへ届けました。
6/2 「ようやって頂いて本当にありがとう」と感謝の言葉をいただきました
本日は昨日とは違う民家の方の畑の瓦礫の撤去を行いました。
途方もない瓦礫の山に、はじめは驚きましたが、最終的には総勢30名近くの人数で行い、ほとんど片付けることが出来ました。中にはアルバムや通帳などの貴重品も出てきたりしました。
そのお家の方から、「ようやって頂いて本当にありがとう」と感謝の言葉を頂きました。本日改めて、連帯の力、団結の力はすごいなと思いました。
瓦礫撤去の他にもボランティアセンターに入って資材の貸し出しや受付などの手伝いや、6/4〜6/5に行われる泥団子にひまわりのタネやとうもろこしのタネを入れて、田んぼに子供たちが投げ入れるイベントの手伝い等の仕事、後方支援としてボランティアの人達の生活支援、新聞配達などの仕事があります。
なので、女性や力に自信のない方でも、出来る仕事はたくさんあります。
本日、北は北海道、南は福岡まで全国津々浦々、全体の総勢81名の参加でした。女性はそのうち1割程いました。
6/3 ボランティアセンターの手伝いに
今日はボランティアセンターの手伝いに行きました。
ボランティアセンターとは、ボランティアに来た方々が上手にボランティアできるようにサポートするセンターです。
ボランティアセンターは全社協が様々な団体に呼びかけ作られたもので、各県の社協の方と自治労連やその他民主団体などで運営してます。
ボランティアセンターの仕事はボランティアの受付(被災者の方が要請する)や、マッチング、オリエンテーション(注意事項など)、『ボランティアグッズの提供や貸し出し、輸送、修理、思い出の品(出土したアルバムなど)や貴重品(通帳など)を預かり』、届けるなどを主に行っています。
『』の中は自治労連担当の仕事です。
鈴木旅館〜陸前高田市災害ボランティアセンターまでは通常ならば5分くらいで着くのですが、地震と津波で橋が落ちて1つしかないため、大渋滞で40分以上かかります。
ボランティアセンターには本当にたくさんの団体が来て、ボランティアに出かけていきます。中には外国人の方の団体もいらっしゃいました。なんだか、ここにも全国の団体や人種の壁を越えた連帯の力を感じ感動しました。さらには、とある団体から、長靴と貴重な釘踏み抜き防止インソールを大量に提供いただいて、優しい想いが伝わって来ました。
通常の瓦礫撤去などのボランティアは主に9時〜15時ですが、ボランティアセンターは朝7:10〜16:30です。しかし残業?がほとんど毎日で今日は18時前くらいになりました。思い出の品が毎日大量に持ち込まれるので、仕分けるのにどうしても時間がかかってしまいます。しかし、それは被災者の気持ちを考え、おろそかには出来ないものなので誰ひとり文句は出ません。
6/4 バーベキュー大会で被災者の方々と交流
昨夜1時ごろ震度3の余震に飛び起きました。毎夜あるのですが、起きる程の余震はこっちに来てから初めて。昨日から暑さが増し、作業も大変になり、半袖も必要だと思います。作業は今日もボランティアセンターでした。土曜ということもあって、昨日よりもたくさんの人達がボランティアに登録に来たので、さらに大変。
本日はそこのボランティアセンターの計らいで、横田町のBBQ大会があり、被災者の方々と交流する機会を頂きました。子供達がたくさん(大人の数より多い)来ていました。社協ではなく、有志の好意で行っているとのこと。本当に様々な団体や人々の輪が一体となっているこの場所に、温かいものを感じました。
なにより、被災者の方々の笑顔に、ホッとしました。陸前高田市長があいさつで、「少しずつ笑顔が帰って来ている。未来の陸前高田を誇れる町にしようじゃないか」と、市民と、自分自身を鼓舞していたように感じました。
6/5 「タネまくべぁ」イベント 未来に芽生えるひまわりの様に、私たちも芽を出していこう
本日は午前中「タネまくべぁ」のイベントの要員、午後からは水路の土砂を取り除く作業を行いました。
タネまくべぁは子供たちと一緒にひまわりの種を蒔きました。そこでも元気いっぱいの子供の笑顔を見ることが出来ました。タネまくべぁでの口長さんの挨拶でもありましたが、「この未来に芽生えるひまわりの様に、私たちも芽を出していこう!」という言葉になんともいい表せない重さを感じました。
ある子供が「地球が壊れて僕たちはどこに住めばいいんだ〜!」と叫びました。岩手の内陸から支援に来ていた仲間が言っていましたが、東北の人は我慢強いというか…あまり口数は多くなく、何度も顔を合わせて心を開いて徐々に話せるようになるということで、同じように子供たちもやり場のない気持ちを抱えているのかなと思いました。
午後からの土砂撤去作業はスコップで土砂を掻き出すのですが、かなり重たく、瓦礫撤去以上の重労働です。腰を痛めないように2人一組になって、交代しながら行いました。最後にネコ(一輪車)が水路に詰まっていたので、みんなで協力し、ロープを使って綱引きの要領で引っ張り出しました。こうして初めて会った人同士が団結し、何かを行うことは嬉しいです。
そんなこんなで作業最終日は終わりました。
そして、昨夜無事に帰ってきました☆朝7時過ぎに向こうを出て、名古屋駅に着いたのは20時30分くらいでした。
現地のたくさんの方々と話す機会があったからです。その方々の話しを少し紹介します。
●鈴木旅館で会った気仙沼市の老夫婦:はじめは避難所にいたが、現在は親戚の家に居候。しかし、それでも気を使うそうで、休みでも気が休まらない。
そして、やはり小さな頃から住み続けているこの場所を出ていくことは考えておらず、津波と闘ってでも、ここに住むぞ!
●23歳の女の子:よくみんなが頑張れって言うけれど、私もう頑張ってるよ!
彼女は仕事が保険屋で、自分の家は津波の被害はなかったものの、地震の被害や電気、水道は止まり、職場は流されて、今は違う店舗に長い時間をかけて通勤しているそう。毎日、お客様に怒られると言ってました。それもそのはず…地震や津波の被害で、契約に地震に対応した保険に入っていないと、保険金が出せませんと言わなくてはならないからです。自分自身も被災者で相手の気持ちもわかるので、余計に辛いだろうなと思うのですが、彼女は平気な顔をして話してくれました。しかし、その顔は本当は辛そうで、目は笑っていませんでした。
痛々しくも、東北の方々は強く、くじけてはいませんでした。東北の皆さん、本当にありがとうございました。また自分が来れるのなら、もう一度頑張って支援したいと思います。
そして、後方支援で私たちを支えてくれた生活支援班の方々や、一緒にボランティアをした仲間たち、なにより自分を送り出してくれた職場の方々や自分の身を心配してくれた友達や仲間たちに本当に心からお礼申し上げます。本当に貴重な経験をさせていただき、ありがとうございました。
以上で、報告を終わります。